データ


 【山  名】    高松山  339 m
 【登  頂】  H19.4.26
 【場  所】  広島市安佐北区可部町
 【コース 】


可部駅着10:36→登山口発10:58→水飲み場11:25→直下神社11:45
  →山頂11:55

○山頂13:25→ガレ場13:48→合流点14:00→登山口着14:05
 【メンバー】  美11名
 【概  要】

























 下山は山頂直下から左にルートを取る。支尾根沿いに下るが落ち葉を踏み登路より自然
 の残る道である。やがて右に変針するころから急坂となる。
 途中、ガレ場の開放部があり視界が開ける。大文字火の場所だろうか。

  登路の石垣最深部で合流する。登り時は右に入るが赤テープ、判別不能の小指示板、
 禁煙の赤札が目印。

 *登山口の案内板
   熊谷氏は、承久の変(1221年)の戦功の賞として、この辺りの安芸国三入庄
 (あきのくにみいりのしょう)に地頭職を与えられ、武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)
  から大林の伊勢が坪に移って来て居城を構えた。次第に勢力を伸ばした熊谷氏は、
  のちに三入庄の南の入り口に位置するこの高松山(339M)へ城を移した。築城
  は四代目直経の時代であったが、実際の入城は勢力が強大となった十二代目信直の
  時代(1500年頃)と思われる。しかし入城の時代には諸説があって明確でない。
   西方眼下に根の谷川が南流し、北方は桐原の渓谷が大きく空堀の役目を果たした
  この急傾斜の高松城は、容易に人馬の登はんを許さず、守りやすく攻めにくいこの
  近辺では希に見る名城と言われ、鎌倉時代の典型的山城である。
   熊谷氏はこの城で毛利氏の家臣として活躍したが、毛利輝元が1591年に広島
  城を築いてこれに移城すると、十三代目熊谷高直もこの高松城を廃して広島入りし
  た。のちに熊谷氏は、関ヶ原の合戦(1600年)で敗れた毛利氏に従って山口県
  の萩に移った。
   この高松城は、徳川幕府が出した「一国一城令」(1615年)によって、跡形
  もなく取り壊された。山頂近くに本丸、二の丸、馬場(井戸跡がある)、鐘ノ段、
  明覚寺跡、与助の丸など大きい郭が残っている。
   熊谷氏の遺跡として、この高松城跡と伊勢が坪城跡(大林)菩提所観音寺跡(三
  入)土居屋敷跡(三入)の四つが県史跡指定を受けている。
                              


 アルバム 

           
               JR可部駅             登山口になります
 
 
                                    山頂です

     

     
              福王寺山             堂床山と可部冠山

     

     
                阿武山            茶臼山と螺山、水越山も

  
                             左から福王子山、堂床山、可部冠山


山頂からの高陽、祇園、可部の町並み 。右奥に木ノ宗山、二ケ城山、中央に阿武山、右に螺山、水越山

     

     
             ガレ場を下ります         振り返ると正面に高松山が

      
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