【概 要】
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下山は山頂直下から左にルートを取る。支尾根沿いに下るが落ち葉を踏み登路より自然
の残る道である。やがて右に変針するころから急坂となる。
途中、ガレ場の開放部があり視界が開ける。大文字火の場所だろうか。
登路の石垣最深部で合流する。登り時は右に入るが赤テープ、判別不能の小指示板、
禁煙の赤札が目印。
*登山口の案内板
熊谷氏は、承久の変(1221年)の戦功の賞として、この辺りの安芸国三入庄
(あきのくにみいりのしょう)に地頭職を与えられ、武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)
から大林の伊勢が坪に移って来て居城を構えた。次第に勢力を伸ばした熊谷氏は、
のちに三入庄の南の入り口に位置するこの高松山(339M)へ城を移した。築城
は四代目直経の時代であったが、実際の入城は勢力が強大となった十二代目信直の
時代(1500年頃)と思われる。しかし入城の時代には諸説があって明確でない。
西方眼下に根の谷川が南流し、北方は桐原の渓谷が大きく空堀の役目を果たした
この急傾斜の高松城は、容易に人馬の登はんを許さず、守りやすく攻めにくいこの
近辺では希に見る名城と言われ、鎌倉時代の典型的山城である。
熊谷氏はこの城で毛利氏の家臣として活躍したが、毛利輝元が1591年に広島
城を築いてこれに移城すると、十三代目熊谷高直もこの高松城を廃して広島入りし
た。のちに熊谷氏は、関ヶ原の合戦(1600年)で敗れた毛利氏に従って山口県
の萩に移った。
この高松城は、徳川幕府が出した「一国一城令」(1615年)によって、跡形
もなく取り壊された。山頂近くに本丸、二の丸、馬場(井戸跡がある)、鐘ノ段、
明覚寺跡、与助の丸など大きい郭が残っている。
熊谷氏の遺跡として、この高松城跡と伊勢が坪城跡(大林)菩提所観音寺跡(三
入)土居屋敷跡(三入)の四つが県史跡指定を受けている。
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