【概 要】
高松山は広島市安佐北区の中心地可部の里山で、鎌倉時代の典型的な山城として県史跡となっていますが名城と云われるだけあり、低山ながら急峻で歩行時間の割には登り甲斐があります。山頂からは可部の街を一望でき、北方向に備前坊山や可部冠山、堂床山など、西方向に福王寺山、水越山、さらに東郷山、窓ヶ山などが、南方向には阿武山、二ケ城山など馴染みの山々が展開します。視界が良ければ広島市中心街の先に能美島など瀬戸内海の島々も望めます。
眼下に望む可部の町はその地形から京都盆地と類似するとか。例えば桂川と鴨川は根谷川と太田川に、大文字山は高松山に、そして嵐山は阿武山にさらに云えば比叡山は白木山にそれぞれ対比されます。また山頂付近の高松神社は京都の愛宕山から火の守り神を分祠したもので5月に大文字祭りが行われるとなると、まさに「小京都」の風情といえましょう。
○登山口(10:00)〜与助丸分岐(10:11)
登山口から坂道を登るとすぐ墓地でその先の大鳥居を潜ると山道となります@。左手に枯れ谷をみての道は岩が目立ち、辺りは樹林に覆われ射す光も少なく陰湿で展望も全くありません。しかしかつては耕作地もあったと思われ石垣や用水路の跡が見られます。鳥居から8分ほどで与助丸の表示が架けられ右に道が分岐していますが、ここは直進して山頂をめざします。
○与助丸分岐(10:11)〜山頂(10:59)
この先も足下には岩が点在し歩きにくい道が続きます。与助丸分岐から18分でほど水場と書かれた表示があり僅かなたまり水が見られる窪みがありました。水場から4分で枯れ谷の最深部で、ここからは右に折れて尾根に取り付く急登が始まり、ジグザグの登りを繰り返し高度を稼ぎます。
次第に樹間からの陽の光も増えてきて尾根に出ると、谷最深部から17分ほどで高松神社大文字保存会など様々なプレートが架かった分岐点ですA。左に下がる道は大文字焼き場所のようで、展望も良いらしいのですが立ち入り禁止の表示が掛かっています。ここまでの道々には「主催大文字保存会」の札が下がっていました。それと火の用心の札も。
短くジグザグを切る道にコシダが現れると大文字焼き分岐から3分で三の丸跡とされる高松神社です。小ぢんまりとした神社の横に掲げられた城郭案内板は古びていますが標高250m以上は国有林とありました。登山路は神社の右手ですが二分し直進が山頂、右は与助丸へ向う道です。神社のすぐ上が二の丸跡、続いて最後の急登をこなすと本丸跡の山頂です。神社から6分ほどでした。
四等三角点が置かれた山頂には高松城の由来解説板や高松城跡の石柱が立っていますが、景観図は新調されていました。山頂からの展望は良く、東方向を除いて三方に大きく開けています。
山頂からは眼下に可部の町並みを見下ろし、広島デルタに向かう太田川が一望できます。北方向に備前坊山や可部冠山、堂床山などが、西方向に茶臼山、螺山、水越山、福王寺山とそのお堂、さらに遠く東郷山、窓ヶ山などが、南方向には阿武山、二ケ城山、呉娑々宇山、牛田山などが望めました。広島市街の先には能美島など瀬戸内海の島々が広がっています。
○山頂(11:58)〜下山(13:00)
本丸跡から木立の中を東に向かうと深い堀切があり、左に「桐原におりる道です」のプレートが架かる道が下っています。堀切を越えるとここも平地で鐘の段とありました。鐘の段を確認した後は下山ですが、下山は与助丸を経由するコースをとりました。
山頂から4分ほど下るとテープが巻かれた与助丸の近道があり、下るとすぐ神社からのコースと合流します。山頂を巻くように進むと6分で「東側脈下山道方面へ」と書かれたプレートが架けられた道が下っていますが、ここを直進したすぐのところが馬場跡で石組の井戸跡がありました。
再び下山道に戻り与助丸をめざしますB。南に下る尾根の道は登りコースとは違って明るい灌木の下山路です。5分で与助丸と書かれたプレートが架けられた郭跡ですが灌木の中で展望もありませんC。与助丸の先にも郭跡と思われる幾つかの平坦部が見られました。与助丸から11分で展望地ですD。かなり低くなった視点で可部の町を見下ろしますが、堂々とした山容の阿武山も眼前に大きくそびえています。
この先は砂礫状の滑りやすい道で要注意です。急な尾根の坂道を下り尾根を巻くように進むと18分ほどで枯れ谷のコースに合流しましたE。後は往路をたどり14分ほどで登山口に到着です。
○登山口(13:06)〜JR可部駅(13:25)
高松橋からは往路と異なり橋を渡らず根谷川の左岸の舗装路をたどります。6分ほどで寺山歩道橋を渡りますがここからの高松山は端正な山容を見せています。
橋からは街道沿いに進み13分ほどで可部駅帰着ですが、ちょうど発車時刻の電車に乗れました。
広島里山紀行 記